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田中均「プロフェッショナルの交渉力」(2009)

 小泉政権下で北朝鮮拉致被害者帰国が実現した2002年当時、アジア太平洋局長として中心的ポジションにいたことから、その時の交渉経過などもう少し具体的な記述があるかと期待したのだが、ところどころ実務での経験が引用されているものの、それ程新鮮な内容の記述があるわけではなく、がっかり。北朝鮮関係も、逆にマスコミからのバッシングへの反論のような視点が中心で、もう少し客観的な記述がほしかった。
 経験を記述のためのフレームがないために、散漫な印象になってしまうのかとも感じたが、このフレームというのがなかなか難しいのだなぁ。
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by yokopw | 2009-12-30 11:46 |  

岡義武「近代日本の政治家」(1960)

 伊藤博文、大隈重信、原敬、犬養毅、西園寺公望の5人に焦点をあてながら、明治政府樹立から第二次世界大戦への突入の政治過程を描きだしているもの。もともとは岡東大教授がご進行用にアレンジしたものらしく、政治的動きそのものだけでなく、その人となりにも焦点があてられており、面白く読み進められる。
<抜粋>
・ 清浦圭吾は山県有朋のことを追想した談話の中で伊藤に言及し、山県公は使えると思った人間を一度用いると、そのものの頭脳や能力などは問題にせず、さほど大きな過失を犯さない限りは決して捨てずに、末永く面倒を見てやった、そのため、使われた者も山県公にすべてをささげることになった、これに反して、伊藤公は適材を発見してこれを適所に用いたのち、用がすめば放置して後は顧みなかった、といい、伊藤の女性関係もその点は同じであった、伊藤は女色を好み、方々で芸妓、雛妓と関係を結んだが、一旦飽きるとあとは忘れたようで、自分の関係をしていた女を人に世話したりした、これが、万事についての伊藤公のやり方であった、と語っている(p41)。
・ 明治日本の外交は、西洋帝国主義、しかし、諸国に対する関係においてはきわめて慎重で、一般にむしろ従属的色彩を帯びていたが、清韓両国に対する関係ではこれと反対にとかく攻勢的態勢をとった。このような我が国の外交を、今仮に一個の人間に喩えてみると、それは抵抗の強い場合には弱く、抵抗の弱い場合に強く出る伊藤の人となりにしても、必要似ている(p46)。
・ (大隈)自己自身について強烈な自信を持った彼は、他の物を必要に応じて起用しても、必要去れば別段そのあとの面倒をみようとはしなかった。又その自信の故に、自分の周辺に配下を作ってその力を結集して自己の立場を鞏固に築こうとも企てなかった(p68)。
・ (大隈)極度に外発的、外向的な彼の性格は、政敵を攻撃する場合に特に最も端的に現われていて、論調は時にしばしば余りにも威圧的、恫喝的となり、聴く者の間に往々反感を抱かせた。大隈はかつて座談で、パリ平和会議での我が国外交のことを批評して、何でもよいから最初に怒鳴って相手の度肝を抜いておくと、仕事がやりやすいものだ、パリ会議でのウィルソンやクレマンソーのやり方もつまりこれだ、日本代表もそうすべきであった、と言っている(p70)。
・ 犬養の直情性と原のこの如才なさとは、元老・藩閥に対してこの二人の政治家がとった態度の差とも照応する。山県有朋はかつて杉山茂丸に語って、朝野の政治家の中で自分の許を訪れないのは犬養毅と頭山満とだけだと言ったが、犬養は昭和6年のその組閣までは元老の門を叩いたことはなかった(p156)。
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by yokopw | 2009-12-30 11:43 |  

入江昭「日本の外交-明治維新から現代まで」(1966)

この本の根底に流れる著者の問題意識は、明治維新から現代まで、日本の外交には東西協調あるいは対立というドグマがあるだけで、外交の基盤にある思想が欠如していたというもの。 日米の観点だけでなく中国、英国など別のアクターも加味しているところが特徴。
 外交における抽象的思想の欠如は、常に現実主義的対応を優先してきている現代(70年以降)の外交にも通じる問題といえる。一方で、特に明治維新から第一次世界大戦まで、列強からの支配をいかに防ぐかと戦々恐々としながら、西欧諸国をモデルに必死に政治経済体制の近代化、富国強兵を進めた日本政府に、理想的な外交を掲げる余地があったかには疑問に感じる。例えば、日本と東洋の特殊性を強調し、アジア諸国に自由と独立をもたらすという政府の現実主義に対抗するアジア主義思想の興隆が取り上げられているが、帝国主義列強に東洋の特殊性を強調することにどれ程の説得力をもったか疑問であり、ある程度の近代化を達成し、国力を高め、国防を確保できるまでは、そもそも理想的外交を展開するという選択肢はなかったのではないか。
また、一方、1870年代から第二次世界大戦終了までの間、帝国主義列強にはどのような外交思想が基盤となっていたのか、政権を貫くような一貫とした思想があったといえるのか、共産主義や民族主義といった一部の例外を除いて、日本と同様に現実主義的対応が先行していたのではないか。例えば、代表的外交の名手として常に上がるイギリスは現実主義的対応が中心といえるのではないか。
本全般を通じて、「思想」という言葉がイデオロギーから外交的伝統まで含めて広義に使われすぎているため、混乱させている印象を受ける。思想の流れとして、政治的指導者の考えを追っているが、国家の根底に流れる外交思想を形成するのは、その時その時の指導者の考えのみによるのだろうか。
 第二次世界大戦後、大戦前の外交の失敗にかんがみ、例えば、ヨーロッパで生まれたEC構築の流れのように、日本政府内外において外交思想の基盤を立て直す(見直す)という機運があったことについても、考察がほしかった(バンドン会議の発想はEAECへ)。

・明治期、外に目を向けざるを得なかった理由の一つは人口問題(8000万人をどうするか)
・西園寺公望(最後の元老、founding father)は非制度的存在であり、西園寺没後、陸・海軍を抑える力弱体化
・チャーチル、日本がパールハーバーを奇襲せずシンガポールからインド洋に侵攻していたら、米は参戦への大義名分もたたず、困ったことになったであろう。(マレー半島が太平洋戦争の最初)
・戦後、台湾と朝鮮が日本の敵対的国家支配下にはいらないということを米が保障
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by yokopw | 2009-12-30 11:38 |